6月、気の早い台風が雨雲を連れ去り、ぽっかりとできた梅雨の晴れ間。その日はバイクの整備などをして過ごそうかと思ったが、ついつい視線は雨粒光るアジサイの方に向き、耳は雨蛙の囁き声を探す。
どうしても心は渓流に飛んでしまい、「やれやれ」と呟いてから工具を置いた。
雨後のササ濁りと来れば、尺山女魚のチャンス。出掛けない手は無いのだ。
灰色の街を通り過ぎ、青く聳える山へと車を進める。古傷がガタキシと煩く鳴る軽四駆のアクセルを踏み込んで、濃霧の掛かった峠のトンネルを抜ければ、そこはもう別世界だ。
谷を下り、川へと降りる。この日の川辺川は予想通り、薄っすらと翡翠色に濁っていた。いつもは澄んだエメラルドのような水だが、これでいい。薄緑のベールに人の姿は隠され、山女魚の警戒心も弱まるだろう。
午前8時、いつも釣り始める集落から入渓。意外にも、こんな時間なのに先行者の足跡は無い。
発電用ダムのプールになっているその場所は、いつでも多くの魚をストックしている筈なのだが、私のルアーに反応は無かった。
増水時にPHの急激な変化で魚が食い渋る場合もある。そんな時はポイントに軽いルアーをデッドドリフトで流し込んでやればいいが、反応は無かった。
魚は増水に乗って上流へ移動したのかもしれない。
10時、マヅメと言える時間は遠に過ぎ、濁りが薄れた水底に日が射す。さて、本流を跨ぐ橋を渡ってポイントに入ろうとした時、警告看板が立ちはだかって面食らう。
「立ち入り禁止、侵入者は見付け次第警察に通報する」
…見る限り、公共の道端にこの文面。しかも、そこを通らなければ川へ下りることが出来ない。
ちょっと奇異に思えたので、看板設置者をネット検索で探し当て、問い合わせてみた。それによると…
「釣りや登山目的なら自己責任で入っても構わない」との回答がもらえ一安心。
街に住んでいると山のローカルルールが分からず、しばしば面食らったり途方に暮れたりすることがある。そのルールの解釈も、個々人によって豪快にまちまちで例えば地元の人と親しくなるとたまに…
「釣れなかった?じゃ、キャッチ&リリース区間から2~3匹抜き上げて帰りなよ」等と言われる事も有る。
それを真に受けて本当に大丈夫な事も有るが、半分ぐらいの確率で警察沙汰にもなる。
極論すれば全て自己責任なのだ。
看板のぶっきらぼうに過ぎる文面も、山の事を知らない街人が事故に遭わないようにする為の精一杯の配慮なのかもしれない。
先には、確かにテント場に最適な広場があるけど、何度か行く内、毎回違う形の岩が転がっている事に気付く。文面は優しさの裏返しなのかもしれない。
川へ下りた頃、都合よく雲が掛かり始めた。河鹿蛙がヒュルヒュルと小鳥のような鳴き声で合唱を始める。トンボもべっこう細工のような羽を広げて忙しく飛び回っていた。
ここには先行者の足跡が有った。しかし、車は見当たらなかったので、おそらくもう上がったのであろう。竿抜けを求め、浅場をミノーで流す。
ここまで来ると流れは細い。しかし、所々に魚が溜まりそうな淵はある。そんな淵の一つに、自作ジグスプーンを投げ入れてみる。先行者が必ず狙う淵頭にではない、渕尻にだ。
流れが打ち付ける岩盤に投入されたジグスプーンは金属光沢を乱反射させながら沈んでゆき、渕尻まで流れてゆく。そろそろ山女魚のタナに入ったと思えるところで、小刻みなリフト&フォールで誘いを入れる。3月はこの手で同じ淵から何匹も引っ張り出したが、果たして通用するか?
ラインがルアーの発する振動を伝えながら目の前を通り過ぎようとしたタイミング、おそらくラインに引かれてルアーが上流を向こうとした瞬間だと思う。餌釣の時のようなアタリが手元に伝わる。
ロッドを立てると、翡翠の水底に銀燐が閃いた。
バラさぬよう慎重に引き寄せ、砂地にずり上げ。20cmちょいだろうか?桜鱒を思わせる銀鱗の下にうっすらと青のパーマークで化粧した美人山女魚が釣れて思わず表情がほころぶ。
その辺りから急に魚の反応が良くなった。ここぞと思える所からは必ず魚が走り出てくるが、食いが浅くバラシも多い。やはり、先行者が釣った後だと少々厳しい。
しかし、魚はこの上流部に集まっているようで、魚影は濃い。深場はジグスプーンで、浅場はミノーのドリフトで、ポツポツと数を重ね、魚籠は重くなってゆく。
ウグイも掛かってくる。婚姻色が出た良型は引きも良く、塩焼きに向くのでこれも抜かりなく頂く。両岸の岩肌からは清水が湧きだし、瑞々しい山菜も生えていた。その一部をそっと頂き、先へ進む。
やがて、謎のモノリス岩に辿り着いた。
何の事だか分からないと思うが、私にもどういっていいのかよく分からない。チャラ瀬の中に平べったい岩が一枚寝ている。
魚が隠れる場所など何もない。
取り立てて深い訳でもない。
しかし、その謎の岩の傍では、高確率で良型山女魚がヒットするという不思議なポイントである。
ミノーにしようか、ジグにしようか迷った。しかし、この日はジグスプーンでやってみようと思い、岩盤沿いにそっと投入した。
薄緑色の浅瀬をルアーの光が横切ってゆく。アップクロスに投げたが、意外にもルアーは良く動いた。岩の陰から、素早くオリーブ色の魚影が駆け出す。
ロッドは一気に胴まで曲がった。こいつは大きそうだ!魚が首を振る度ゴンゴンとロッドは締め込まれ、リールはチリチリと金属音を出しながら糸を吐き出す。
引っ張り合いはラインブレイクに持ち込まれかねない。相手の体力を伺いながら攻め時を探る。
何度か押し引きする内に魚が下流を向いた。この機を逃すまじと、流れに乗せて引き寄せる。針一本の危うい掛かり方だったが、無事に岸へずり上げた。
長さ自体は大したことない。26~27cmぐらいか?しかし、その魚体は異様に太く、その顔には風格すら感じられた。
胃の中からは河鹿蛙が何匹も出てきた。大した豪傑である、川の横綱に出会えたところで、今日は釣りを切り上げた。
雨が近づいているのだろう、蛙達の合唱も賑やかになってきた。
良い釣りが出来た時は、行き付けの飲み屋に行くこととなる。今日も食処花樹の大将は、山女魚を材料に腕を振るってくれるだろう。
まず定番の塩焼き。パリッと焼けた皮の中から、湯気を立てるジューシーな身を一摘まみ。口一杯に広がる山女魚の上品な味を澄み切った球磨焼酎で流し込めば何も言うことは無い。
そして、山女魚の半身を大胆に使った煮つけ。とぐろを巻いたような身を解きほぐして行くと、中からネギと山ウドが出てくる。
腹が満たされ、酔いが回ると眠りの精が舞い降りてきた。
耳の奥に残っていた川音と河鹿蛙の残響を子守歌に、とうとうその場で舟を漕ぎ始める。
外では酔客達が何か大声で騒いでいたがそれも耳に入らず、心は既にあの川に帰っていた。
食処 花樹【公式】https://hanaki.owst.jp/
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