浮靴沢奇談 鉄砲水
【最終話 靴の少年】
前回からの続きです。
【第1話 隣の谷】はコチラ。>>
【第2話 浮靴沢】はコチラ。>>
【第3話 河原にて】はコチラ。>>
【第4話 靴の淵】はコチラ。>>
【第5話 鉄砲水】はコチラ。>>
【第6話 日差しの中で】はコチラ。>>
村に、一人の少年がいた。
釣りがとても好きで、暇さえあれば野山を駆け巡り、良く日に焼けた、そんな田舎の少年だった。
早くに母を亡くし、貧しい家庭に育ったせいか、それとも昔の多くの家庭がそうであったのか、要するに比較的放任で、自由闊達に成長していたが、それでも、『あの沢』にだけは、危険だから立ち入らないようにと戒められていたようだ。
父親は貧しいながら勤勉な性格だったので、周囲の村人からも好感をもたれていたそうだ。
ところが、ある時を境にそんな父親の生活が少し派手になり始めたという。
仕事もせず、昼間から酒を煽ることもしばしば見受けられるようになったというのだ。
時を同じくして、その父親は村人からの忠告をよそに、『あの沢』にしばしば通うようになっていて、その結果、遂には鉄砲水で命を落としてしまう。
残された少年も数日後には行方をくらましていた。
村での捜索の末、同じ沢の上流の淵に、靴だけ浮いているのが見つかったという。
少年が父親から買ってもらったという、当時としてはかなり目を引く、少年自慢のズック靴だった。
「姉ちゃん、スゴイだろ!」誇らしげにその靴を自慢する少年の笑顔を、今も老婆は覚えていると言った。
父親の後を追って身を投げたのか、足でも滑らせたのか。
ただ、父が命を落としたのは自分のせいだと嘆く少年を何人かの村人が目撃していたようだから、何らかの自責の念があったものと思われた。
少年だけが知る、何か秘密のようなものが谷にはあったのではないかとも噂された。
そんなことがあってから、しばらく後のこと、今、僕の前でこの話を語ってくれている老婆の、その父親が財を成し、更には村の長までをも務めるようになったと言うのだが、するとすぐさま、自分にも縁談が持ち上がったのだそうだ。
こんなお婆さんでも、昔はかなりの美貌の持ち主だったのだと本人は言うが、とにかく隣村の酒蔵の若旦那の元へと嫁いだとのことだ。
しかしながら、こんな父娘にも良いことばかりが続くことはなく、ある日突然、今度はこの父親までもが、沢で命を落としてしまうことになるのだ。落石があったらしく、ここでの原因は鉄砲水によるものではなかったようだ。
それから更にもう一つ、なんと、浮靴沢にまつわる一連の話、その骨子は、この老婆の父親が、生前、ある明確な意図を持って作り上げたものだという。
これにはさすがに驚いた。
以前より鉄砲水が起こりやすい川だったということは、この後に及んで、もう疑う余地はないだろう。それから、鉄砲水に遭遇した村人が子供の靴を見たと言って騒ぎになったという話、それが本当に靴だったのかどうかは、また別のところだとしても、騒動自体はどうやらこれも事実であるらしかった。
ただ、靴が目撃されるようになったのは、やはり少年の一件があって以降のことだったようで、そのことから、この谷を『靴の浮く沢』と命名し、ミステリアスな噂を広め、村人の安全を図るうえでの警鐘としようと考えたのが、長、つまり彼女の父親だというのだ。
ところが、そんな長に対する村人からの評価のほうはというと、かなり冷ややかなものがあったようだ。
「靴のあるところ出水ありとはいえ、少年のことを鉄砲水を引き起こす悪霊の如くに吹聴したのでは不憫すぎる」とか、「奇妙な話で村人を沢から遠ざけておいて、自分は沢で命を落とすとは、いったいどういうことなのか?」とか、長を取り巻く噂は後を絶たなかったらしい。
中には、「やはり沢には隠すべき秘密があるのでは?」とか、「親子の一件は、事故ではなく、谷の秘密を知った長が関わる事件であり、長は、あの親子に呪われたのだ。」などと中傷されることもあったという。
きっとこの老婆も、長の娘として、さぞかし辛い思いをしてきたのだろう。
父親の他界後は、『浮靴沢』などという忌まわしい呼び名が当たり前になることのないようにと努めて来たのだそうだ。
だから、彼女にしてみれば、僕が先程口にしたことなどは、到底 信じ難い、耳を疑うような出来事だったということになるだろう。
今頃、ましてや、僕のようなよそ者の口をついて出て来る話であってはならなかったのだ。
ただそうなると、今度わからないのは、やはり、あのオヤジだ。
僕はそれこそ今頃になって、当時さながらの、かなり珍奇な話を聞かされて、更には、あろうことか、実体験までをもして来たことになるのだ。
なぜなのか、靴の持ち主については謎のままだといったような口ぶりだったから、少々合点がいかないところはあるものの、いずれにしたって、あのオヤジがこの地に相当深く関わる人間であることに違いはないだろう。
けれど、この老婆にして『知らない人物』と言うのなら、本当は、ここら辺に、きっとまた何かの事情が絡んでいるかもしれないとは思うものの、それ以上の続ける話がある訳でもなかった。
そして僕はこの時、だだただ、あの谷にあるのかもしれない一つの秘密に思いを巡らしていたのだ。
谷の秘密が人に知られぬようにと、そんな長の思念が鉄砲水を呼び、父のような犠牲を出したくないと思う少年の悲念が、枯れ葉を靴に見せたのか……? そんなことを考えていた。
長が善人であったのか、そうではなかったのか、もちろん真実はわからない。
けれど、彼女にとっては父親だ。やはり正義でなくてはいけないはずだろう。
先程の涙の意味は何であったのだろうか?
「ここには、晩年、父が建てた家があったんヨ。」
「焼けてしまって。今ではお墓だけになってしまいましたがネ。」
遠い目で老婆がつぶやいた。
父親の墓参には毎日来ているのだという。
「そうでしたか。」
「あっ、タバコいいですか?」
僕がまたタバコを口にしようとした時、老婆も欲しいと言うので、その1本を先に彼女に渡し、火を差し出した。
それから、僕もタバコに火をつけると、二筋の煙がまっすぐと空へと立ちのぼった。
「あの、一つだけ聞いてもいいですか?」
「焼けてしまわれた家、まさか旅館業を営んでなんかいませんでしたよね?」
自然と僕はそんな言葉を口にしていた。
「アハハ」
「こんなド田舎に、旅館だなんて。お客なんて誰も来やしませんヨ。」
老婆は大笑いしながらそう言った。
ちょっと、びっくりするほどの大きな笑い声だった。
そして今度は声を落として、少し上目遣いにこう続けたのだ。
「ところで、谷で何ぞ見つけたものはなかったかネ?」
老婆のその口元に、金歯が光っていた。
それから急に風が吹くと、二筋のタバコの煙は混ざりあいながら、風下へと流れて行った。
――あれ以来、あの川には一度も足を運んでいない。
今もふと気付くと、いつの間にか、あの、たっちゃんという少年のことを考えていたりする。一度、花でもたむけにあの谷を訪れて来ようかと思うこともある。
けれど正直なところは、やはり恐ろしさのほうが先に立っていて、気がかりではあるものの、いつも、なおざりのままだ。
ただ、僕が通り抜けたあのトンネルは、あの時、本当に現実の世界に通じていたのだろうかと、不思議な気持ちに陥ることがあるのも事実だし、宿に至っては、きっと今も、そこには存在などしてはいないのだと、そう思えてならない。
トンネルの利用者は順調に増えているようだ。
何やら温泉を利用したレジャー施設ができるとかで、最近何かと話題があがっている。
それから、あの谷にも砂防堰堤の整備が進行しているようだ。
府靴沢の伝説は、もう、どこにもないのかもしれない。
翡翠の話も聞くことがない。
おしまい。
【あとがき】
いかがでしたか? 勿論、お話は全くのフィクションですが、ロマンを求め、時に夢見がちに、つい無理をして猛進する、そんな一人の釣り人の心境をストーリーに盛り込みました。
鉄砲水というものが、実際どのようなものであるのかについては、想像と愚考を繰り返すばかりでありますが、言うに及ばず、釣りは安全第一。自然を相手にする以上、不可抗力によるアクシデントも中には起こり得ることかもしれないものの、可能な限りこれらを回避する努力だけは怠らないようにしたいところではあります。
『隣の芝は青い。』これと少し似た感覚かもしれませんが、隣県の谷に緑の宝石が眠っているかどうかはともかく、「どうにかして、この流れを渡ることができないものか? いくらでもイワナやヤマメが釣れそうな美味しそうな淵が、すぐ目前に見えているのだけれど……」 なんていうことは、多くの釣り人が経験しているでしょう。
冷静に、自制心を持って行動しなければいけない場面に遭遇することは案外多いものです。
(even)
こちらは、ご参考マデ。
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