釣り一頁 【水面の影】
ある夏の夜、私が夜釣りに行ったときの体験をお話しします。
私は普段、近所の野池でバス釣りをしているのですが、そこはとても有名な野池で、非常に釣り人の多いハイプレッシャーなフィールドです。朝マヅメや夕マヅメに有望なポイントに入れることは稀で、バスは確かに多く生息しているのですが、私のような初心者には難しい野池でした。
「どうしたらあそこでたくさん釣れるかな?」
ある日、同じ野池に通う友人のS君とそんな話題になり、私達は話し合って、夜釣りに挑戦してみることにしました。
「この前、夜にあの野池の近くを通ったから、少し覗きに行ったんだ。誰も釣りしていなくて吃驚したよ。昼間とは大違いだ」
そんなS君の言葉に、期待が膨らんだのです。
夜釣りの当日は満月でした。念のためヘッドライトや懐中電灯を買い込んだ私達でしたが、それが必要無いくらい、月明かりで足元が良く見えるのでした。
夜釣りには持って来いな環境だ――そう思って、S君と私は池の周囲をぐるりと囲む畔を進んで、ポイントを目指しました。直ぐ左手には、月明かりを反射して浮かび上がる、凪いだ水面が広がっています。私は見えもしない魚の影を探し、水面を見ながら歩いていました。
すると――
水面に、おかしな影が映り込んでいることに気が付きました。先を行くS君の影、そして私の影、さらに、私の後ろにもう一人――
足音や息遣いはありません。ですが、その影は歩調を合わせるように、私達に付いて来ていました。それに気付いてから、私は背後に、奇妙な視線を感じ始めたのです。
(なんか……寒い……嫌な感じがする……)
私は前を行くS君に声を掛けようとしました。が―― 声が出ません。え、何で? と思った時には、口だけではなく足が―― いいえ、体全体が金縛りのように言うことを聞かなかったのです。私はパニックに陥りました。
(――ッ! ヤバい、ヤバいヤバい!!)
横目に水面を見れば、あの不可解な影が私の直ぐ後ろまで迫っていました。次の瞬間――
私の左肩にぬぅ――と、女が顎を乗せてきたのです。冷たい感触でした。酷く濡れているのか、長い前髪が顔に貼り付いていて、表情は分かりません。
女は私の横目に映る水面を指さし、震えるような声で言いました。
『……探して――』
「わあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
気が付くと、私は叫んでいました。金縛りは解けていて、声を聞き付けたS君が駆け寄ってきました。
「どうした!? 大丈夫か!?」
この時、S君は女の姿を見てはいません。でも――
腰が抜け、這うような私の左肩にS君が手を掛けると、私のTシャツはそこだけが、ひんやりと濡れていたのでした。
女の正体が何だったのか、私には分かりません。でも、足場の良い人気の野池なのに、夜釣りする人が全くいない―― そこには確かな理由があると、それだけは確信しています。